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165冊目 「言論の自由」vs.(たい)「●●●」
「言論の自由」vs.(たい)「●●●」

立花 隆著

文芸春秋 (2004.4)

\1,300

評価:☆☆☆


 週刊文春が、田中真紀子の長女が離婚したことを報じた。それ自体は面白くも可笑しくも無い、低俗な記事だ。

 その報道に対して長女側は、長女が公人ではないことから個人のプライバシーを盾に週刊誌の出版禁止を訴える。なんとも驚くべきことに、この訴えはたちどころに認められ、長女の離婚に触れた記事が載る限りこの号は出版してはならないとされてしまった。

 文春が発売禁止となると、各界から”あんな低俗な記事で出すべき価値も無いものなのだから、禁止は当然”といった類の言説が噴出する。

 だが、我々はそんな言説を投げかける人物に問わなければならない。低俗だから、といった理由で発禁を認めて良いのか、と。そう熱烈に問いかけ、状況の異常さ、言論の自由との戦いであることを見据えないだらしのないマスメディアを痛烈に批判するのが本書である。

 マルチン・ニーメラーの有名な格言(引用元はこちら)はご存知の方も多いだろう。

はじめにやつらは共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。

つぎにやつらは社会主義者と労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。

つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。

そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。


 低俗だから規制されて良い、という考えは、残念なことにその範囲を拡大するだろう。事実上、裁判所が検閲の機能を持つこととなり、言論の自由なんてものは憲法に書かれただけで実体を伴わないものに成り果てる。

 たとえば、である。ある有力政治家が法を犯して献金を受け取っていたとする。あるいは一企業と癒着していたとする。その事実を暴こうとした時に、政治家が個人のプライバシーを盾に一切の報道を禁じたらどうなるのか。我々は不正のあった事実すら知ることができなくなる。そんなことでは民主主義は成り立たない。

 本書を読めば、問題は田中真紀子の長女のことなど下らないことにあるわけではなく、あまりにも拙速に裁判所が発禁の決定を下し、まともな理由も答えない、ということが良く分かる。欧米では考えられないようなとんでもない判決だった。

 そして朝日新聞はライバルの文春が発禁になったと見るや、ここぞと文春を批判するという驚くべき態度をとった。この事件の持つ真の意味を省みることなく。

 裁判所には裏の事情、いつか発禁の本を出してやると手薬煉(てぐすね)を引いていたという事実の指摘も重い。民衆を見下し、低俗なものは取り締まろうと考えるのは裁判所の責務からはかけ離れているはずだ。裁判所は、低俗ではあったとしても社会を構成する人々の生活を、自由を、幸福を護るためにあるはず。だから行政や立法から切り離された権力機構として存在しているのだ。本業を忘れた裁判官は批判を免れない。

 その事実を、実際の裁判記録を提示しながら示している。読んで楽しい本ではない。だけど、”やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった”となる前に抵抗するためには、知っておかなければならない事実が沢山含まれていると思わずにはいられない。

 本件は、地裁で長女側が勝ち発禁が認められたが、抗告を受けた高裁では文春側が勝訴。民主国家として極めて当然の結果となった。

 高裁判決が出るや、朝日が手のひらを返したくだりは笑った。
 高裁決定が出た翌日の「取り消しは当然だ」と題する朝日の社説にはビックリ仰天したが(地裁決定が出たときの朝日社説は、「地裁決定を暴挙とした文春声明」を叩くのに忙しかったが、今度は地裁決定がどれだけひどい決定だったかを叩きまくっていた)、またあの手で行けば良いのである。
 戦争中は戦争の煽り役の先頭に立ち、戦争が終われば一億総懺悔の先頭に立つなど、臆面も無い論調変更例は朝日の歴史にいくらもある(略)。


 我々に必要なのは、もっと腰の据わったジャーナリズムだろう。バランスが取れた視点を持ち、下らない争いに汲々としない、そんなジャーナリズムが。そのためには、まず我々自身が賢くなろう。政治家も裁判官もジャーナリストも、国民の身の丈に合った人々しか得られないのだから。
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ノンフィクション | 2006/07/21(金) 23:20 | Trackback:(0) | Comments:(0)

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