半藤 一利著
文芸春秋 (2006.7)
\620
評価:☆☆☆☆☆
1945年8月15日、玉音放送によって日本の戦争は終わった。正式に終わったのはミズーリ号上にて降伏文書に署名した9月2日なのだろうが、ほとんどの者はこの時点で戦いは終わったのだということを悟った。
それと同時に、もう一つ終わったことがある。天皇を奉じて日本国民最後の一人に至るまで戦い抜くべきだと信じる青年将校たちによるクーデターである。
中心を占めるのは近衛師団。天皇を護るための軍隊が、天皇の意思から逸脱して動き出していた。和平こそが天皇の望みだということに思いを馳せることもなく。
彼らは宮城を占拠して外部との連絡を絶ち、降伏を天皇に勧める国賊の影響を排除して天皇から徹底抗戦を引き出そうとした。その行動は師団長、陸相、参謀長らから追認されるものと信じていた。
玉音放送によって絶望的な抵抗を止め、一人でも多くの国民を救おうとする者たちと、国体護持を確保できない以上降伏を認めることはできないとする青年将校たち。
14日の御前会議から、翌日正午の玉音放送までの緊迫した一日の模様を、多くの文献と取材から冷静に描き出す。淡々とした筆致でありながら、臨場感に溢れ、事態の推移から目を離せない。歴史的事実として玉音放送はあったわけだから、クーデター部隊の失敗は分かる。それなのに一気に読み通させる迫力を持った、すごい本だと思う。
だが、読み終わって釈然としない点も多々ある。クーデター部隊は命令に背き、上官を殺害し、自分勝手な妄想に酔った。そんな彼らの策動を、一部の人々は参加はせずとも止めもせず、綱紀を最も守らなければならない近衛師団の将校たちが平然とそれを破る。
ところが最後は、この動乱は無かったこととして特に処罰も与えられない。張作霖爆殺や満州事変など、明らかに中央政府の意思と異なることが起こっていながら適切な対応を取れない異常な状況。私利私欲ではなく国家のための行動だからと免罪されてしまう点には納得がいかない。
夢破れた決起部隊も、天皇の意思は降伏に非ず、と勝手な妄想を広げた挙句、近衛師団長を殺害するなど後先を考えない失敗を繰り広げる。勿論、その時代の背景として下克上だとか軍人が政治に容喙していたことが大きいのだろうが、それにしてもその勝手さは目に余るように思われてならない。
阿南陸相の自刃と、並行してのクーデターおよびその処罰の甘さを見ると責任とはなんなのかを考えさせられる。終わりを想定することなくなし崩し的に太平洋戦争に突き進んだ判断の甘さにも思いを馳せる。
理詰めで構想を練ることなく勢いで進んできて、敗北の状況を纏め上げるのは至難の技である。そんな状況に陥らないためには、やはり冷徹な計算と終わりを見つめられる視野の広さが必要なのだろう。漠然とそう思わされた。
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