スティーブン・ピンカー著 / 山下 篤子訳
日本放送出版協会 (2004.8)
\1,176
評価:☆☆☆☆☆
最初この本を見かけたときには食指は全く動かなかった。このダサダサなタイトルにしてやられたと言っても良いだろう。ところが、上巻の帯の推薦文をマット・リドレーが書いているのを見て俄然興味が沸いてきた。「人間本性についての最高の書。これを超える本は今後も出ないだろう。実に見事な著作だ」
マット・リドレーは『ゲノムが語る23の物語』や『やわらかな遺伝子』といった非常に優れた書き手である。後者については過去に紹介した。これらの本では豊富な実例に基づいて人間の性格や行動は遺伝子だけで説明できるものでも環境や教育だけで説明できるものでも無いことを述べていた。自身が多くの知見を持つその分野について、手放しで絶賛しているのを知って、これは読んでみようかなと上巻を手に取ったところ、これがまあ実に面白い。
著者は、人間の性格や行動が教育や環境”だけ”で説明できるとする説を、ブランク・スレート(空白の石版)と呼ぶ。生まれた時点では心にはなにも書き込みがされていない状態で、環境や教育によって如何様にも変わりうる、という含意である。上巻ではまず遺伝決定論とブランク・スレート仮説について、ルターやホッブズに遡って歴史的展開を追う。この部分だけでも膨大な資料にあたったことが容易に推測されるのだが、驚くべきは多くの資料にあたったことではなく多くの情報を散漫にすることなく纏め上げた腕にあるというべきだろう。人間の本性について過去の人々がどのようなことを唱えてきたのかを一望できる様は見事である。
繰り返し語られるのは、ブランク・スレート仮説が最早正しいとは見做せないだけの多くの事実が明らかになってきていること、ブランク・スレート仮説の擁護者たちは対立する事実や理論に対して決して褒められないような態度を示した、ということである。原始的な社会では犯罪がほとんど起こらず、戦争においても殺人は儀式的に執り行われた少数の犠牲者のみで済んでいたとする”高貴な野蛮人”仮説などその最たるものであるが、どのように、そしてどれほど誤っていたかは上巻におけるハイライトともなっている。正直、敬愛するスティーブン・ジェイ・グールドもブランク・スレート仮説に固執したことについての追求にはちょっとした厳しさを感じたが。
本書が念頭においているのがアメリカの読者であるため、我々にとってはちょっと理解しにくいこともある。例えば、ブランク・スレート仮説が崩れてしまったら人間社会を正しく運用するのは不可能であるという反発。これをすんなり理解するためにはキリスト教にバックボーンをおく倫理観について理解していなければならないのだ。勿論、本書の中で十分その論理は説明されているのではあるが、この手の感覚は説明されたからと言って腑に落ちるというものでもない。そのような点もあるが、全体的に説明は丁寧で読みやすく面白いという素晴らしい書である。続きを読むのが楽しみな一冊。
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