畑村 洋太郎著
岩波書店 (2004.9)
\1,995
評価:☆☆☆
”失敗学”で知られる著者が挑む、教科書的な考えじゃない数学的な考え方を伝える本。著者の主張する、人間は A(原因)→ D(結果)と考えているのにA → Dじゃ短絡的だからAだからB、BだからC。CということはDとなる、というような考え方は人間の直観に反しているというのはその通りであると思う。
私が最も賛同したのは、”理解する”というのは”頭の中に既に入っているテンプレートにすんなり当て嵌まること”という主張である。頭が良いというのは世界を理解するためのテンプレートを多く持っていることだ、などと考えたことは無く、目から鱗が落ちた。
高校の数学の教科書は大学の理系の先生が楽をするため、無理な教え方をしているという指摘は多少強引かな、と思わなくもないけど。
読者が数学に毒されているところからまずは抜け出させ、その上で微分積分や三角関数、行列や確率とはどのようなものなのかを畑村視点から解くのは面白い。このような見方を高校時代に教えてもらっていたら、高校で数学を苦手になる生徒が少なくなるように思う。
ただし、本書はあくまで畑村式観点から見た数学について語っているだけで、それが素直に納得行くものかどうかは定かではない。個人的には自分の考えと被っていたりして、目新しい話題ばかりではなかったことを申し添えておく。
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アミール・D.アクゼル著 / 高橋 早苗訳
アーティストハウスパブリッシャーズ (2005.2)
\1,470
評価:☆☆☆☆
自分が教師になって、生徒が40名いるクラスの授業をしているところを想像して欲しい。生徒と、「このクラスの中に誕生日がおなじ人がいるかいないか」で賭けをすることにする。どちらに賭けたら負けない確率が高いか。直感を信じると、1年には365日あってクラスには40人しかいないのだから、いないほうに賭けたほうが得のような気がする。しかし、その場合には勝てる可能性はたった11%しかない。なにか騙されているような気がする。
あるいはバス停。10分に1回の割合でバスが来るなら、普通に考えると待つ時間の平均は5分くらいになるはずなのだ。ところが15分待たされちゃったりする。こんなのは日常で良く経験することである。ここにも騙されている感じが付きまとう。
あるいはギャンブル。パチンコや競馬。必勝法などの雑誌やスパムがでまわるけど実際にそれで稼いでいるのはどうも記事を書いた当人だけみたいに思われる。これはもう確実に騙されている。主として胴元に。
そして、これらのことは確率に左右されているのだ。いやいや、最初の例は分かるけど2番目の例はちょっと違うんじゃないのか、と思うかもしれない。しかし、そうではないのだ。それどころか確率論によれば恐るべきことまで確率で判断できることが示される。それはなんと、幸福な結婚をする方法である。私自身が幸せな結婚生活を送っているかと聞かれたら、ハイと答えないと怖い目に合いそうなのでハイと答えざるを得ないが、まだ結婚などという過ちを犯していない方にとってはこれは朗報である。もちろん、そんなものがあるとして、だが。
なんにしても、世界はこんなにも確率に支配されているのである。そんな確率の世界を、面白い話題を選んで書いているのこそ本書なのだ。確率というものが、実はどれほど身近なものなのかが良く分かるようになっている。確率についての初歩的な講義が最初にあるが、そんな話が嫌ならそこをすっとばしてしまっても良い。勿論、話の性質上専門的なことは書かれていないので、そのようなことを求めてしまってはいけない。それよりも、確率的な考えというものがどれほど身近な現象に当て嵌まるのか、ということを楽しみながら読めると思う。
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斎藤 美奈子著
平凡社 (2003.1)
\1,500
評価:☆☆
私は趣味を聞かれたら読書と答えることにしている。大体、空いている時間があったら本を読まずにいられない(少なくとも文字は追いかける)というのは最早中毒の領域であって、趣味を聞かれるくらい接近される頃にはバレているようなものなのだ。おまけに無趣味なので他にはスキーと水泳と野球と料理とネットと睡眠と友人たちと飲んだくれることと歌を歌うことくらいしか好きなことは無いのだ。ちなみにテレビはほとんど全く見ない。
そんな私にとって、本書の指摘である本はマイナーな商品だ、というのは納得が行く点と行かない点がある。比較としてテレビを取り上げているが、料金を払ってまでテレビをみたいヒトと金を払って本を読んでいるヒトを同列に論じるのはそもそも無理がある。確かに周りで読書家だな、と思わされるヒトは全然いないけど、例えば野球を実際にやるヒトと比べたら本を読むヒトの方がずっと多い。ちょっとした駅前にはまず間違い無く本屋があるわけで、これはマイナーとは言い難いことを意味しているわけだ。もっと市場規模のデカイものと比べたら、それはマイナーかもしれないけどそんな比較には意味が無い。
私自身は斉藤の言うところの「読書依存症」という奴か。読んだ本についてあれやこれやと論評し、頼まれもしないのに、ネットで読書日記を公開したりするってのはまさにぴったり。そして「邪悪な読者」でもある。邪悪な読書依存症患者として、勤めを果たすために論評しちゃうのだ。
この本は、ベストセラーな割に読書家の間では読まれていない本を、読者に変わって斉藤美奈子が読んで教えてあげようという本。取り上げられているのは全41冊で、そのうち私が読んだのは『話を聞かない男、地図が読めない女』と『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』、そして『空想科学読本 1』の3作のみ。これだけだとちょっとアレなヒトみたいだけど、その通りである。その3冊については私の感想もあるので斉藤を適切に判断で切ると思うのだが、
はっきりいって面白くない。
偽悪趣味というかなんというか、けなしすぎだし勉強し無さすぎ。空想科学読本では、ヲタという一つの教養体系があるんだというレベルの捕らえ方しかできていない。『空想科学読本』は、子供の頃に愛していてたアニメや特撮を今も愛する者がその無茶な設定を笑いながらも愛するというのがポイントなのだ。怪獣図鑑をめくると火を噴く怪獣の体に必ずやある炎袋ってなんだよ!というそんな誰もが感じる突っ込みを、誰もがは突っ込めない方法で、誰にでも分かるように書いてあるのが面白いわけだ。論理にはかなりの無理があるようだが。
『地図を〜』に至っては酷いものである。
さて、あなたは納得なさいますか。なさったらまずいでしょう。だってこれ、典型的な擬似科学本だもの。べつにいえばトンデモ本。平たくいえば、まことしやかな迷信を綴った本。ここまでズサンかつ古臭いと、いっそおもしろい。
男女別の得意科目や職業をあげつらって性差を強調しているが、(中略)こういう考え方は三〇年くらい前ならまだ信憑性があったかもしれないが、今では恥ずかしいので、知的な人(知的なふりをしたい人)はだれも口にしなくなった。社会科学の蓄積なんか、どこ吹く風なんですよー、歴史学者や社会学者のみなさん。
じつはこの引用文、決め付けだけで成り立っている。男女にはっきりとした性差があるのは近年の科学研究により確実であると見做されている。むしろ、差が無いという陣営こそイデオロギー色を帯びた無茶な論理を振りかざしているのである。例えば、男女に性差が無いという思想では、「女性は生理の周期によって女性ホルモンが多い期間には数学の点が悪く言語の点が高い一方女性ホルモンが比較的少ない時期には言語の点数が下がり数学の点が上がる」という事実を説明できない。また、あらゆる社会において男性が攻撃的で性的にアクティブである(平たくいうとセックス好き)ということや女性よりもはるかに暴力犯罪を引き起こしている(殺人で10倍、犯罪全般で30倍)ということを、全く説明できない。それどころか、言葉を発する際に活動する部位も脳内で異なること、精神障害にかかりやすいのにも差があることなども同様。この辺りはちょっと前に紹介した『人間の本性を考える』や『やわらかな遺伝子』に詳しい。『地図を〜』はこれらの本と比べれば飛びつきすぎだし、主張が極端な側に振れすぎている点もあるが、だからといって生まれながらにして性差があるという考え自体を否定はしてはいけない。むしろ、この本の悪い点はあたかも獲得形質が遺伝するように書いてあるところで、そこを批判していたのであれば私も賛同したのだが。。。
そんなこんなで、内容は薄っぺらいけど、本はそれに反比例してか厚い。勝手な決め付けを豪快と思えるなら読んでも面白いかもしれないが、私の趣味ではない。いくら趣味が読書であると言っても、読む本は選びたいものである。
2006.7.9追記
著者の斉藤氏は社会科学には目を通しているようだが、そもそもこの分野がインチキと出鱈目で溢れかえっていることを考えれば、氏の考証がこのレベルなのは致し方の無いことかもしれない。
特に、所謂フェミニズム周辺には恐るべきほどの無知と政治的偏向が付きまとっている。政治的偏向よりも科学や統計によって導かれる結論を尊重したいと思う。
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宮崎 哲弥著 / 藤井 誠二著
春秋社 (2001.5)
\1,890
評価:☆☆☆☆
少年による凶悪犯罪は激減している。少なくとも、1960年代と比較すると激減と言って良いであろう。しかし、激減する中で少年法は改正されたことは記憶に新しい。少年法改正の前後において旧少年法擁護派と改正派の間で激烈な論争が起こったものである。多くの人はそのような論争の詳細など目にも留めなかっただろう。ところが、これを眺めて見るとどちらもとんでもないことを言っていることが明らかになる。そんななかで、多くのデータと事件に基づいて冷静な対談がでた。それこそ本書である。
まず、少年法改正のきっかけとなった”10台による凶悪犯罪の増加”が明らかに間違っていることを示す。しかし、一方では被害者がこれまで余りに軽視されてきたという事実があり、改正において被害者に対しても一筋の光明が当るようになったのは功績であろう。しかし、それは少年法の思想と合致するのであろうか。
少年法の思想、などと改めて言われて見ると、実は良く分かっていないことに気付くはずである。少なくとも、少年法は少年を罪に問わずに構成させることを目的にした法、という理解では足りない。実は少年法には厳しい点もある。裁判においても不利な少なくない。少年の刑を厳しくするのであれば、少年にだけ不利な点は解消するべきなのかどうか、と言った点ではほとんど議論がされてこなかったことは残念で、そういう点にも触れている本書は少年法を語る上でとても貴重なものとなっている。
少年法を取り巻く多くの事実や現状、理論について幅広く触れながら、対談特有の話題のズレを感じさせない優れたつくりにもなっている。これは対談する二人が二人とも少年犯罪の実情についても法律問題についても被害者感情についても加害者の置かれる状況についても深い知識を持っていることが大きいだろう。被害者のことしか考えたことが無い人と加害者の権利を守ろうとのみ人とではこうは行かないだろう。論争が噛み合わない理由はそこにある。
対談でありながら話題がそれず、実に楽しめた。しかしながら、”脳が原因”を叩いているのはちょっと無理がある。脳が原因だったら子供のうちにスキャンして高リスク郡は隔離しろとでも言うのか、という論調であるが、それは違うだろう。統合失調症の患者は殺人を犯し易いデータがはっきりと示されているが、脳をスキャンしてうんぬんという話にはならない。データの取り方についての批判は正しいと思うが。また、メンタリティは教育によって変わることが無いという事実について余りに触れられていないのが気になる。そういった点を除けばもう満点に近いまとまりっぷりであろう。少年犯罪に興味があるなら必読であると言って良いと思う。
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スティーブン・ピンカー著 / 山下 篤子訳
日本放送出版協会 (2004.9)
\1,260
評価:☆☆☆☆☆
いよいよ最終巻。ここで取り上げられているのは政治、暴力の起源、ジェンダー、子育て、芸術である。芸術においてポストモダンを批判しているのは、論旨としてはとても納得がいくのではあるが本書で取り上げるべき話題かどうか、ということには疑問を感じる。しかし、全体としては相変わらず興味深い話ばかり。
特に多くの方が興味を抱くのは、子育てについての話題ではなかろうか。行動心理学の三法則というのがあるらしい。以下の通りである。
第一法則 人間の行動特性は全て遺伝的である
第二法則 同じ家庭で育った影響は、遺伝子の影響よりも小さい
第三法則 複雑な人間の行動特性に見られるばらつきのかなりの部分は、遺伝子や家庭の影響では説明されない
知能についても面白い研究が幾つも出ている。なんと、成長するに従って遺伝の影響が大きく出てきてやがては親そっくりになってくる、というのだ。子供の行動特性は、親が何をしようとも変えられないのであれば親が子に良かれと思うことをなにかをしてあげるのは無意味なことなのだろうか。これは設問自体が間違っている。行動特性が変わろうと変わるまいと、子供が幸福を感じるかどうかの多くは親に拠っている。子供が(親の望む)特定の才能を持つから愛する、というのは間違っていると気が付かなければならない。
教育についての部分だけでも十分に面白いので、上巻や中巻の内容に興味をもてそうに無くても下巻だけ買っても損はしないだろう。男女の問題、特にレイプについてどのようなことが分かっているのか、ということは女性が身を守るために知っておいて悪いことは無いと思う。
しばしば挑発的に、また話題が多岐に渡りすぎて脱線しすぎているように感じられる点もあるが、遺伝と行動の間にどのような関係があるのかについて実によく論じられている。参考文献も膨大な量に上っており、それらの成果を上手く纏めているのでつい読みふけってしまう大変な名著であると言えるだろう。ただし、個々の話題のほとんどはアメリカを念頭に置いて書かれているので日本人にとっては特に刺激的には感じられない話題もあるが、そこなどはアメリカではどのように社会が認識されているのかを知るのに充てれば良いと思う。
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スティーブン・ピンカー著 / 山下 篤子訳
日本放送出版協会 (2004.8)
\1,176
評価:☆☆☆☆☆
上巻に引き続き、人間の本性はどのようなものであるのかを浩瀚な研究から探る。
ブランクスレート仮説が成り立たないとなるとどのような不都合が発生するのか。双子の研究などから分かってきたことを総合すると、人間のメンタリティーは驚くほど環境の影響を受けず、生涯に渡って安定した特性を示す、ということになると倫理上の問題が発生するようである。例えば、反社会的になり易い傾向のある家系というのが確かに存在する(その一族から温和な家庭に養子に出されても犯罪を犯しやすくなる)。家系によって多寡が見られるのは犯罪だけではなく宗教に対する態度やアルコールやタバコへの依存症に陥り易いなど実に多くの
ことがある。
では、そのような傾向があると、果たして悪を行うべきではないという倫理は無意味なものになるのだろうか。暴力を犯し易い傾向がある人が暴力事件を起こした場合、それは遺伝によって引き起こされた事件なので精神疾患を持つ患者の犯罪と同様、犯人を罰することは意味が無いのか。
このことは問題にはならない、というのが著者の姿勢である。それどころか、宗教的な道徳心というものが必ずしも集団を平和に保つ力にはならない、という指摘は確かにその通りなのである。偏狭な遺伝決定論がナチを生み出し、人間は環境次第でどのようにでも変わりうるという思想がスターリンやクメール・ルージュ統治下の監獄社会を生み出したように、道徳や人間の精神に対する考え方はどのようなものであれ害になりうるのだ。
考えて見れば、例えば殺人のような凶悪犯罪を起こしやすい社会集団は存在する。また、同じ集団は犯罪全般も起こしやすい傾向がある。犯罪を起こしやすい社会集団は、そうではないグループと比べると凶悪犯罪で10倍程度、犯罪全般では30倍程度も引き起こしている。この危険な社会集団とは、実のところ人間社会の半数を占める”男の社会”に他ならない。だからといって男の犯罪は免罪されるべきだとは言えまい。
著者の凄いところは、このようなイデオロギー闘争になりがちな分野にも果敢に乗り込み、冷静に筆を運んでいるところだと思う。中巻では生まれついての差があるとしたらどのようなことが言えるのか、努力は無駄なのか、遺伝で全てが決定されているのか、人生には意味があるのか、心の設計はどのようになっているのか、など、どれも複雑怪奇である話題だが、それぞれが無理なく説明されていてすんなり頭に入るのだ。
上に述べた主題に対して、トピックで取り上げるのは遺伝子組み換えであったり、フェミニズムであったり、セックス、自己欺瞞と実に多様であり、それがまた面白さを増強していると思う。話題が豊富で切り口が鮮やかだと面白いに決まっているのだから。観念的な精神世界論ではなく、堅実な人間精神の探求であるところがお見事である。
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スティーブン・ピンカー著 / 山下 篤子訳
日本放送出版協会 (2004.8)
\1,176
評価:☆☆☆☆☆
最初この本を見かけたときには食指は全く動かなかった。このダサダサなタイトルにしてやられたと言っても良いだろう。ところが、上巻の帯の推薦文をマット・リドレーが書いているのを見て俄然興味が沸いてきた。「人間本性についての最高の書。これを超える本は今後も出ないだろう。実に見事な著作だ」
マット・リドレーは『ゲノムが語る23の物語』や『やわらかな遺伝子』といった非常に優れた書き手である。後者については過去に紹介した。これらの本では豊富な実例に基づいて人間の性格や行動は遺伝子だけで説明できるものでも環境や教育だけで説明できるものでも無いことを述べていた。自身が多くの知見を持つその分野について、手放しで絶賛しているのを知って、これは読んでみようかなと上巻を手に取ったところ、これがまあ実に面白い。
著者は、人間の性格や行動が教育や環境”だけ”で説明できるとする説を、ブランク・スレート(空白の石版)と呼ぶ。生まれた時点では心にはなにも書き込みがされていない状態で、環境や教育によって如何様にも変わりうる、という含意である。上巻ではまず遺伝決定論とブランク・スレート仮説について、ルターやホッブズに遡って歴史的展開を追う。この部分だけでも膨大な資料にあたったことが容易に推測されるのだが、驚くべきは多くの資料にあたったことではなく多くの情報を散漫にすることなく纏め上げた腕にあるというべきだろう。人間の本性について過去の人々がどのようなことを唱えてきたのかを一望できる様は見事である。
繰り返し語られるのは、ブランク・スレート仮説が最早正しいとは見做せないだけの多くの事実が明らかになってきていること、ブランク・スレート仮説の擁護者たちは対立する事実や理論に対して決して褒められないような態度を示した、ということである。原始的な社会では犯罪がほとんど起こらず、戦争においても殺人は儀式的に執り行われた少数の犠牲者のみで済んでいたとする”高貴な野蛮人”仮説などその最たるものであるが、どのように、そしてどれほど誤っていたかは上巻におけるハイライトともなっている。正直、敬愛するスティーブン・ジェイ・グールドもブランク・スレート仮説に固執したことについての追求にはちょっとした厳しさを感じたが。
本書が念頭においているのがアメリカの読者であるため、我々にとってはちょっと理解しにくいこともある。例えば、ブランク・スレート仮説が崩れてしまったら人間社会を正しく運用するのは不可能であるという反発。これをすんなり理解するためにはキリスト教にバックボーンをおく倫理観について理解していなければならないのだ。勿論、本書の中で十分その論理は説明されているのではあるが、この手の感覚は説明されたからと言って腑に落ちるというものでもない。そのような点もあるが、全体的に説明は丁寧で読みやすく面白いという素晴らしい書である。続きを読むのが楽しみな一冊。
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清水 義範著
文芸春秋 (1998.9)
\500
評価:☆☆☆☆
くだらないことを真面目で、なおかつ大げさに書くと面白くなることが多い。清水義範はその事実を熟知している。本書のタイトルにもなっている、『バールのようなもの』はその格好の例だと言えるだろう。
ニュースを聞いていて、宝石店に泥棒が入ったり、金庫が破られたりする際に必ずニュースで言われる”バールのようなもの”とは一体なんなのか。そんなことを考えることがそもそも馬鹿馬鹿しいのにこれを大げさ過ぎるほど真面目に取り組む。その結果、清水義範がバールのようなものの正体を知ることができたかどうかは本書に譲る。清水はこういった技法がとにかく上手い。なぜ故にきちんと調べものをしたのにこんなことになってしまうのだろうかとクビをひねりたくもなるものだ。
念のため。クビをひねる、というのはバカな作者のクビをひねる、というわけじゃありません。
木曽義仲の後半生をユーモラスに書いて見たり、突然若々しくなった老人に隠された秘密を書いて見たり、正月でのんびり過ごす家族や、何が楽しいのかよく分からない老人旅行にでかける人々、緑の窓口での人間模様など普通の人は目を付けないようなところに目をつけること自体、作者が非凡であることを教えてくれる。そこに名古屋人気質が加わるとユーモアになってしまうのだ。
短編集なので、ちょっとした時間に読めるのだが、電車の中で読むことはお勧めしない。くすくす笑って恥ずかしい思いをした私からの、せめてもの助言である。
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