荷宮 和子著
中央公論新社 (2004.12)
\798
評価:論外
世の中には読むだけ無駄な本というものがある。その代表みたいな本であり、その論の粗さと論拠のダメさだけは超絶である。個人的にフェミニズムというものを嫌っている私は、ついにフェニミズムが凋落した(過去形)という事実を冷静に追いかけている本が出たのかと思って手に取ったのだが、大間違いであった。この本の著者はフェミなヒトで、その没落の原因をちっとも分かっていないことが、本書をダメのダメダメにしている元凶である。
フェニミズムはなぜ没落したのだろうか。いつかネタにしようと思って取っておいたPlayboyの記事を紹介しよう。
SEX TREND IN U.S.A
女が立ち、男がしゃがむ時代!?
トイレ事情最前線
(略)私の興味をかきたてる珍妙な噂がスウェーデンから届いた。イギリスの雑誌『スペクテーター』に掲載されたジャスパー・ジェラードの記事によれば、スウェーデンの若い女性たちは「男は座って小便をすべし」と主張しているという。(略)「立って用を足すスタイルは、男らしさを誇示し、女性差別を助長する行為である。(略)若いインテリ層もむかつくようなマッチョ的行為ととらえている」というのである。
これを読んで馬鹿馬鹿しいと思わないだろうか?ちなみに、私はこの記事を読んで以来、女性差別主義者を自称し、日々むかつくようなマッチョ的行為に励んでいる次第である。座ってすると尿切れが悪いんじゃ!!(注:誰もそんなこと聞いて無い)
男女の排泄器には、見て分かる通りあからさまに構造上の違いがある。(え?見たことが無い?ああ、そういうヒトは今は対象にしていないのであしからず。)その差ですら認めず、同じようにあらゆる生活シーンで同じように振舞わなければならないとする理由は特に見当たるまい。
たとえば、筋ジストロフィーや血友病のように男性により不利に働く伴性遺伝病というものがある。こういった生まれついての疾患にかかるのは主に男性であって女性では無い(家族として苦しんでいる女性が沢山おられることは重々承知しております)。そういった問題は遺伝子工学を駆使して女性も同じ率で苦しむようにするべきであろうか?違うであろう。
構造の違いは違いとして認めなければならない。マット・リドレーは『やわらかな遺伝子』のなかで、男性ホルモンの濃度によって赤ん坊が親と視線を合わせる頻度が異なることを指摘している。人間関係の構築も性別によって大きく変わることが想像される。また、女性の方が脳内で言語を司る領域が大きく、男性と比較すると脳障害によって言語を失うリスクは低いことが分かっている。更に、左脳と右脳をつないでいる脳梁の太さも男女間に差があることが分かっている。そのため、一部の処理能力に関しては女性の方が優れている。しかし、フェミニズムの人々は決してそんなことを認めない。
端的に言えば、こういう無茶な主張こそがフェニミズムを没落させてきたと言って良いだろう。なんでも自分に有利なところだけ切り出して、そこに”男性社会”というレッテルを貼り、なんてことはない「単なる自分の不満」を社会全体が叶えるように恫喝する、というスタイルは廃れるに決まっているのだ。
具体的な本書の記述を眺めてみる。
数では拮抗しているにもかかわらず、なかなか女が「男社会」に属する男に勝てない、その最大の理由とは、「男に生まれた側がたいてい身につけている、男ならではの資質=下劣さ」に立ち向かえるだけの「人間としてのいやらしさ」を身に付けることができずにいるからである、私はそう考えている。
(略)
「下劣さ」の対極にあるもの、それは人間としての「真っ当さ」である。
(p135より。強調は引用者による)
呆れたことに、”男ならではの資質=下劣さ”と断じるその根拠は、林真理子のエッセイである。「ひとりひとり会えばいい人なのに、記事を書く段になると、どうしてあれほど下劣に、卑怯になれるのであろうか。」(p134より引用)これだけを根拠に男=下劣と断じるそのやり方こそ、下劣極まりない。(こんな下品な言葉、サイト開設以来初めて使ったよ。。。)
男のおたくには、いや、おたくであろうとあるまいと、たいていの男には「男に生まれることができた=生まれおちた瞬間から女よりも得をしている」という事実に対する卑屈さ、後ろめたさがない。
(上掲書p217より引用。強調は引用者による)
男に生まれるということは、そのままイコール女よりも得をしていることにはならない。その論拠はまったく示されないまま、突然断定されてしまっても男性としてはただただ戸惑うばかりである。そんな思い込みだけを根拠にされたら、溜まったものではない。勝手な逆恨みを背景に、世の男性に向かって「卑屈さ、後ろめたさがない」と非難することは的を外している。例えば人間関係の構築においては女性の方が有利である可能性については既に述べた。特定の能力を背景にするのであれば、荷宮の主張が通る可能性もある。例えば筋肉を付けたいなら男性の方が女性よりも遥かに有利である。個人的に所謂マッチョは嫌いなのだが。
要は、「たまたまチンポがついていたというだけの理由で、女よりも上の給与と地位を約束されてきた」という事実に対して、男はもっともっと、「後ろめたさ」を感じながら生きて欲しい
(上掲書p218より引用)
つくづく、下品なもの言いである。なぜ下品に相手を攻撃することしかできないのか、とうてい理解できない。こんな下品な文章を書く人も書く人だが、出版させる側も出版させる側である。
さて、現在においても男女の賃金に差があることは事実である。もし仮に女性の方が優秀あるいは平等なのに給与が安いのならば、それは是正されなければならない、と思う。しかし、それは世の男性が後ろめたく思わなければならないこと、なのだろうか、というとそうではあるまい。私が全国の女性の給与を決めているならうしろめたく思うべき理由があるが、そうではない。全国どころか自分自身を含めて誰一人給与を決める権限などない私が、男性の一員であるというだけの理由で後ろめたく思うことは筋が違う。こうやって自分の想像だけで突っ走った結果、著者はこんなことを主張するまでに至ってしまう。
ところが、現実はと言えば、買春どころか強姦でさえとがめるつもりがない、それが日本のフツーの男の本音である。
この本の読者の中に「オレはそんなことはない」という男の人がいたとすれば、それは単に、「あなたはフツーではない」というだけのことに過ぎない。
(略)
「買春どころか強姦でさえとがめるつもりがない」という、日本のフツーの男の本音が揺らぐことなど、決してありはしないのである。
(上掲書p222より引用)
これまた出典一切無し。そして、強姦を咎める男に対してはこうやって予防線だけが張られている。「それは単に、「あなたはフツーではない」というだけのことに過ぎない」。
とにかく一貫しているのは、下品な語り口調、勝手な決めつけ、根拠はあやふや、フツーとか多数とかと言った数的概念を持ち出すのに数値は一切でてこないという異常な事態になってしまっている。単なる男性攻撃の本に過ぎない。
最初に書いたことに戻ると、こういった態度こそがフェミニズムの没落を招いたと思われてならない。そう思って読むと、本書のタイトルはなんとも皮肉である。このような尋常ならざる本にシンパシーを感じた人々は先鋭化して”男社会”攻撃に走るだけで良いという安易な考えに浸ってしまうだろう。社会全体が豊かになって行くなかで、生活の中から失われて行った共産主義思想が先鋭化していき、軽井沢山中で凄惨な同士殺し、それに続く浅間山荘立てこもりに収斂して行ってしまったように。
最後に蛇足ながら追加すると、男女に差があるというのは、飽くまで傾向である。男女の脳差ってあるのかなというサイトのように女性が理系で男性が文系のカップルも別におかしくはない。それは、特定の女性が特定の男性よりも背が高いことはあるが、平均で見ると女性は男性よりも背が低いというようなものだ。逆に言ってしまえば、男女の能力差の少なからずはその程度のものでしかない。もちろん立って用を足せるとか、出産できるというようなものは話が変わるが。例外と言うのもあって、遺伝型がXYであっても生殖器が女性のように見えるタイプの異常もあったりしてその場合には立って用を足せなくなるのだが、そういうことを言い始めたら長くなるのでこの辺りで終わりにする。
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赤川 学著
筑摩書房 (2004.12)
\735
評価:☆☆☆☆
少子化が叫ばれている。その対策として男女共同参画が推進されているが、果たしてそれは正しいのだろうか。その手始めとして、女性が社会に出たら少子化が進む傾向があることを統計的に導き出し、では女性は社会に出るべきでは無いのか、と問いかける。更に、「男女共同社会が少子化を防ぐ」と唱える人々が、女性の社会進出度と出生率のデータから自分達に都合の良いデータだけ切り出して自説を正しいものに見せようとしていることに対して強く非難している。
では著者は女性は社会に出るべきでは無いと考えているのかと言えば、そうではない。都市化が進むと否応無く少子化が進むことは明らかであるのに、男女共同社会を目指せば少子化は解消されると言うトンデモな論を否定しているだけである。もし仮に、男女共同社会と少子化解消が平行して進むのであれば、保守的な女性抑圧論者以外の誰も文句は言わないだろう。しかし、仮にこの二つが矛盾するのであればどうするべきであろうか。少子化を防ぐために女性を社会に出さないべきか、女性の権利を拡大するために少子化を諦めるべきか。
その前提となるのに、少子化になったら何が困るのかを問わねばならない。著者は様々な意見を紹介しつつ、それが最後には年金問題に行きつかざるを得ないことが示される。年金問題は、結局のところ子どもが増え続けるものだとの想定に立っていたからもはや破綻は明らかである。老人のために女性の社会進出は否定されるべきなのか、どうか。
そこで著者が唱えるのは、少子化は防ぎようが無いのだから、少子化が行きつくところまで行ってしまった時点をモデルとして社会を組み立てるべきというモデルである。これ以外に筋の通った答えはない、と私も思う私も、女性が女性であると言うだけの理由で職業上不利に扱われるべきではないと思うのだ。ただし、男女には生まれついての差がどうしてもあるので、特定の分野で男女の比率が偏るのは仕方が無いだろう。それと、才能もやる気もあっても性別だけで排除される、というのは別問題なのだ。
著者は女性団体(所謂フェニミストやフェニミズム団体)から非難も浴びせられたりするようだが、感情的な非難だけでよしとするのではなく、議論は冷静に行わなければならない。少子化問題にちょっとでも興味があるのであれば、必読の一冊であるといえよう。
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ロバート・アーリック著 / 垂水 雄二訳 / 阪本 芳久訳
草思社 (2004.2)
\1,785
評価:☆☆☆☆
専門家の言うことが常に正しいわけではない。どのような分野の問題であれ、それは同じである。パオロ・マッツァリーノさんのスタンダード 反社会学講座というサイトでは社会学者達の撒き散らす出鱈目について面白おかしく、おまけに考えさせるように書いてある。このようなことを、もうちょっと真面目な視点から取り上げているのが本書、トンデモ科学の見破りかたである。
本書で取り上げられている、トンデモかも知れないし本当かも知れない9つの奇説は以下の通り。
銃を普及させれば犯罪率は低下する
エイズの原因がHIVというのは嘘
紫外線は体にいいことの方が多い
放射線も微量なら浴びた方がいい
太陽系には遠くにもう一つ太陽がある
石油、石炭、天然ガスは生物起源ではない
未来へも過去へも時間旅行は可能である
光より速い粒子「タキオン」は存在する
「宇宙の始まりはビッグバン」は間違い
それぞれの説に対して、なぜその仮説が正しいのか、あるいは間違っているかを懇切丁寧に調べることで、どのようにして仮説の正しさを証明して行けばいいのかを説いている。上記9つの奇説のうち、一部のものは正しいと思われ、また一部のものは間違っていると思われるが、その結論をどのように導いているのかを知ることはただ単にその仮説の当否を知ることよりも重要である。結論しか知らなければ一つの知識を得たに過ぎないが、考え方を知れば他の問題に対してもそれを当てはめることができるから、である。
その上、この本は読みものとしても面白いのが素晴らしいところである。時には私自身の思い込みも間違っていたことを指摘されて目から鱗が落ちたり、また結論は正しく知っていてもその間の考え方が抜けていることを気付かせてくれたりと、読んでいて知的な興奮を覚えさせれられたものである。9つの奇説の中に一つでも興味をそそられたものが含まれているのであれば、読んで損は無いと言える。
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