![]() | プリニウスの迷信―荒れ狂うフッ素論争 (2006/11) B.ハイルマン村上 徹 商品詳細を見る |
評価:☆☆
虫歯予防にはフッ素が効く。そんなわけで、アメリカでは多くの州で、水道水にフッ素が添加されている、という。そのフッ素添加に虫歯防止の効果が無く、むしろ有害だとしたらどうだろうか。
本書はフッ素添加を巡る激烈な論争の歴史を取り上げている。
どのあたりが激烈かというと、互いに相手の指摘に耳を傾けず、もっぱら攻撃にばかり労力が費やされていることか。医学分野は科学でもありながら、完全に再現を取る事ができないという点で所謂ハードサイエンスとは異なる。だから論争はしばしば政治的な様相を帯びるのは知っている。
しかし、本書が正しいのだとすれば、フッ素添加派は政治権力と結びついて反フッ素添加派を弾圧しているとしか思えない振る舞いをしていることになる。これは最早、あらゆる観点から科学では無いだろう。
フッ素添加濃度と虫歯の罹患率の間に、顕著な相関はないというのが反対派の拠り所であり、それどころか害があるとしている。真贋を判断するほどのデータや根拠が載っているわけではないので、どちらが正しいとも判断つかないが、少なくとも冷静に虫歯を減らすには何が有効なのかを検証する必要はあるように思う。
ただ、著者自身がかなりの反フッ素派ということもあり、解説文での過激な主張が目立つ。これははじめてフッ素論争を知った人には大変なマイナス効果しか与えていないと思われる。訳書自身が細心の注意を払って中立的な立場に徹しているため、訳者のスタンスが際立ってしまう。冷静さが感じられないため、警戒を生んでしまうのはもったいないと思えてならない。
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![]() | 100歳の美しい脳―アルツハイマー病解明に手をさしのべた修道女たち (2004/06) デヴィッド スノウドン 商品詳細を見る |
評価:☆☆☆☆
老化と痴呆は、しばしばペアとして考えられている。とりわけアルツハイマーは、高齢者に発病し全ての記憶を奪い去ってしまう恐ろしい病気としてイメージされているのではなかろうか。
そのアルツハイマーは、どのような状況で発病するのか。この問いに答えるのは容易なことではない。その一番の理由は、アルツハイマーを発病する年齢が高齢ということ。生活環境なのか、遺伝なのか。
生活環境がコントロールされ、しかも記録が残っている。そんな都合の良い集団があれば研究にはベストかもしれないのだが・・・・・・
疫学者である著者は、研究に最適な集団として修道女に目を向ける。修道女達は生活全般が高度にコントロールされているし、性生活が無いことで極めて画一的な条件に過ごしていることになる。おまけに、こまごまとした記録が残っているという利点まであるのだ。
こうして著者らは修道女達と共に、アルツハイマーの謎を解く研究に進むことになる。現役を引退した彼女らの過去の生活から現在の、歳を重ねても健康一杯の人とアルツハイマーを発症してしまう人との差を調べる研究である。
研究精度を高めるには、彼女らの死後に脳を提供してもらい、解剖する必要もある。その必要性を、著者は修道女達に訴える。彼女達には強いストレスも掛かっただろう。過酷な選択でもあったとは思う。だが、多くの修道女が研究のために死後に脳を提供する決意を決めたの理由を知るには、彼女達自身の言葉を引用するのが最適だと思う。
「私たちは修道女になったとき、子供を持たないというつらい選択をしました。でも脳を提供することで、アルツハイマー病の謎を解くお手伝いができれば、未来の世代に、別の形で生命の贈り物を残すことができるでしょう」
こうして修道女達と著者らの研究はスタートした。
とりわけ驚かされたのは、痴呆の進行具合と、脳の外観が一致しないこと。機械論的な立場から言えば、以下の流れが理解しやすい。
アルツハイマー病によって脳が侵される -> 機能が失われる -> 痴呆となる
しかし、この単純な図式は当てはまらないことが明らかになる。アルツハイマー病の大きな特徴として脳のサイズの減少があるが、病が深く進行したレベルの脳の持ち主でも死ぬ直前まで頭脳明晰だった方も居れば、脳から見れば比較的進行していないようでも重度の痴呆を発症してしまった方も居る。
その差はどこにあるのか。その理由は完全に解き明かされたわけではないが、どうやら二十歳前後の若い頃から、将来のアルツハイマーのリスクを予見できるというところまで分かったと言う。驚くべき結果だ。脳の不思議さ、ひいては人間と言う生き物の不思議さが現れているように思う。読み始めた頃には、それぞれのシスターの幼年期のことまで丁寧に取り上げていて面食らったが、実はこれがアルツハイマーのリスクを評価するうえで欠かせない行為だ、なんて興味深いではないか。
著者はこれらのことを平易な言葉で語っており、理解しやすいのは大きな特徴。恐らくは修道女達に研究目的を説明する中で、専門家ではない人々へ研究内容を伝えるやり方について考え続けてきたのだろう。だから、読み物としても楽しめる。
加えて、著者が修道女達を研究材料として見ているわけではないことも、本書を読みやすくしている。著者にとっては大切な友人達であり、共同研究者達であるのだ。本全体から温かみが感じられて、大変良い雰囲気で読める本だった。
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![]() | 遺伝子・脳・言語―サイエンス・カフェの愉しみ (中公新書 1887) (2007/03) 堀田 凱樹、酒井 邦嘉 他 商品詳細を見る |
評価:☆☆☆☆
本書はフランス語の”cafe de science”と日本語の”カフェでサイエンスを”というのをもじって付けられたサイエンスカフェの試みの記録である。従って、本題よりもサブタイトルの方が本書の試みを上手く表現しているし興味を引きやすいと思う。この試みは現在も続いているので、興味がある方はカフェ de サイエンスを覗いてみて欲しい。
さて、このサイエンスカフェというのは、カフェなどでくつろぎながら一般の参加者が科学者と話しあうという貴重な機会である。登場するのは二人。堀田凱樹さんと酒井邦嘉さんである。
で、のけぞったのが物理的な視点で生物をやろうとしていた堀田凱樹さんが辿り着いたのがシーモア・ベンザーの研究室、というくだり。この人、ハエの研究で大変に有名な人で、その功績は『時間・愛・記憶の遺伝子を求めて―生物学者シーモア・ベンザーの軌跡』に纏められている。こんなところで以前に読んだ本とつながりがあるというのは驚き。ゴジラに堀田さんのハエが出演していたなどの話題と絡めつつ、軽妙に脳科学の面白さを語っていくので、私も参加したかったとの念を強くした。
もう一人の科学者、酒井さんは堀田さんの弟子にあたる。現在は脳と言語の研究をしているとのこと。言語を使いこなすための機能は人類に普遍的にあるわけだから、そこに脳が言葉を理解するための脳言語のようなものを仮定している点など、こちらも面白い話題が多い。
脳が最後のフロンティアとばかりに多くの分野の科学者が参入したことが、更に多面的な見方を提供しているわけで、今後も脳科学の発展は続きそう。部外者としてとても楽しみである。
残念なのは、双生児の脳科学と題した回。実際に一卵性双生児を前にしての話だったのだが、違いをアピールすることに終始してしまった感がある。しかし、多くの研究から養子同士が全く似ない事や、30を過ぎると性格特性のほとんど全てが遺伝の影響になるとの研究成果が紹介されていない。ここにも私は遺伝の不思議があるように思えてならないし、否定されるなら否定されるで面白さがあると思っているので残念だった。
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![]() | 騙される脳 (扶桑社新書 18) (2007/08/30) 米山 公啓 商品詳細を見る |
評価:☆☆☆
流行というものは、渦中にある人にはたまらなく魅力のあるものであるが、外側の人には全く訴求力を持たない。お笑いが嫌いだという人に、テレビでやっていた最新ギャグを披露しても下水に浮かぶゲジゲジを眺めるような冷たい視線で見詰められるのが関の山。で、外側の人はなんでまたこんなものが流行るんだろうと思うわけだ。
外側に立つのは、実のところ簡単な話。なにせ、流行は一過性の上に人を選ぶわけだから、ちょっとでも自分がその範疇から外れてさえ居れば良い。昔の話、異性にターゲットの絞られている話、ヲタな人を狙った話、などなど。今更がちょーん、と言うならば、その台詞で笑いを取るには狙い済ました一撃が必要だろうけど、往時はそれだけで一斉にナウなヤングが莫迦ウケしていたはずなのだ。
ではなぜ流行があるのかというと、「新しさ」を追求する脳の仕組みがあるからだ、というのが本書の主張。
タイトルからも分かるとおり、流行に流されることについて著者は否定的な立場にあるようだ。前書きでも「騙されないためには、自分なりの価値観を持つことが重要」と言っている。
しかし、流行はそんなに悪いものではない。そもそも、それほど共通の知識基盤のない職場などにおいては当たり障りのない話題づくりには貴重ではないか。そうでもなければ仕事の話しか出来なくなってしまうではないか。
などと言いながら、私は全く流行に興味が無いので会社では無口です、はい。会社の人とは円滑に仕事を進めることさえ出来れば他に望むことはありません。
世間で大流行した朝青龍の大バッシングには、普段相撲なんか見ないくせにバッシングだけに参加するとは暇な人がいるもんだ、と思っていたほど。私自身は、相撲なんかに一切の興味が無いので犯罪が無い限り報道は不要だと思うのだが。もっとも、角界というところは凄惨なリンチ殺人を行ってもなかなか逮捕さえされないという摩訶不思議なところのようなので、犯罪が起きても表に出てこないかも知れないけれども。
著者によるとこういうのは男に多いそうで、とりわけおじさんに多いと指摘されている。ええ、おっさんですとも。
「新しいこと」と、「自慢したがる」ことをキーワードに、ゴッホや軽井沢、ニセコスキーリゾート、京都などの良さがどのように”発見”されたのかを語るのには説得力がある。とりわけ淋しく感じるのは、日本人が軽井沢を認めるようになるのは外国人が絶賛してからというくだり。外国でもそうかも知れないけど、良い物は良いと認められるようになりたいものだ。
ただ、タイトルに脳が冠してあるが、脳そのものの話題はほとんど出てこない。脳に興味がある方には別の本を当たることをお勧めする。
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![]() | 「狂い」の構造 (扶桑社新書 19) (2007/08/30) 春日 武彦/平山 夢明 商品詳細を見る |
評価:☆☆☆☆☆
本書は精神科医の春日武彦と作家の平山夢明が狂気について放談した、貴重な記録である。かなり毒が強いので、加害者の人権とか、人間の矯正の可能性なんてものを信じているヒトは決して読んではいけません。なにせ、精神科医として数多の患者を診た人がこんなことを言ってしまうのである。
平山 (略)いつも疑問に思うのは、そんなに精神医療とか、カウンセリング力ってのいうのは、人間の根本を激変させるほど強力なものなんだろうかと。
春日 いやあ、ない、ない。
平山 例えば『蜘蛛の糸』のカンダタのように異常犯罪者が心から悔い改めたりするんだろうかと思うんだけれど、そんなことはあるんですか?要は機能不全みたいなものでしょう?
春日 だから、俺なんか、人格障害のヤツなんかを扱ってても、治そうという気もないし、治るとも思ってないし。じゃあどうするかって、相手が年取るのを待つわけだから。その間にまあ、そんなに外さないでくれりゃいいやと思ってるんだけど。
(p.58)
これを読んで、私は思わず笑ってしまったのだが、そういう人は文句なしに楽しめます。
何が良いって、この突き放した感じ。異常を理解しようなんていう人がいるけど、親族を亡くしたことのない人が精神の大まかな動きは追うことができるとしても、決して親族を亡くした人の気持ちに辿り着けないように、異常者を理解することなんて不可能である。理解することが不可能であるというなら、矯正も不可能だということが近年の研究から明らかになっている。彼らは脳の障害を持っているに過ぎない。両足が無い人にサッカーをやれと言っても無茶なように、彼らに犯罪を犯すなといっても無茶である。
このような客観的事実を受け入れてしまえば、今の法体系にはかなりの無理があることが分かる。宮崎勤、オウム、山口県光市母子殺害事件などで悉く心神喪失が争われたわけだけど、どれも無駄だ。彼らは決して更生も矯正もしない。本書でも取り上げられているが、幾人もの女性を強姦した挙句に絞殺していた小野悦男は人権派弁護士なる者に導かれて脱獄し、そこでまた女性を殺害している。彼らは違う精神を持った存在と認識するほうが理に叶っている。権力に服従するアイヒマンのような人は沢山居るだろう。私もその一員の可能性はあると思っている。だが、それと彼らとは根本的に異なる、ということを知って損はない。
兎に角、ざっくばらんに新潟少女監禁事件や山口県光市母子殺害事件、ミートホープや雪印、果ては給食費を払わないアレな親まで、狂いがあると思うところには恐れることなく切り込んでいくので見ていて気持ちが良い。全てを受け入れるのではないとしても十分に楽しめると思う。
最終章ではエド・ゲインやジェフリー・ダーマー、ヘンリー・リー・ルーカス、マリリン・マンソンといった実在の連続殺人犯についても好き勝手に語っている。異常の中でも最たるもの、殺人に至る病で仕上げるとはなんとも心憎い(?)仕儀ではないか。
対談はしばしば各自が語りたいことをだらだらしゃべってしまってまとまりがなくなるものだが、そのようなことにはならない。二人共に興味を持つことを好きにしゃべっているはずなのに、肝胆相照らす仲の様に絶妙な対談に仕上がっていると思う。興味を持った方は是非手に取ってみてください。
ただ、東海村臨界事故の話で、チェレンコフ光を肉眼で見た人がいないとか言っているのは間違い。それくらいなら私も見たことがある。
なお、チェレンコフ光というのは、水中などで電子が水中における光速を超えたときに出る蒼い光のこと(相対性理論は”真空中の光の速度”を超えてはいけないと言っているので、”水中の光の速度”を超える分には問題ない)。あのどこまでも蒼い光には神秘的な美しさを感じた。きっとブラウン管なり液晶画面を通したらあの圧倒的な美は表現できないと思う。東海村で起こったのは、眼球の中の水分でチェレンコフ光が発生したのではないかということであり、肉眼で見たというのとはレベルが違う。
気になったのでここだけ指摘。
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